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2010年11月26日 (金)

裁判長が記者会見しない不思議。

 このところどうも右膝の状態が芳しくない。ま、芳しくないといっても、時折ズキンと痛みが走る程度で、歩くのにはなんの問題もない。ほんの数秒で痛みは消えてしまうのだが、そのズキンがなんとも不快なのだ。高校時代に超満員の都電から飛び降りた時に膝を痛めたのが、この歳になって神経痛っぽく出てきてるのだろう。ようするに、老化現象ってことっすね。いやはや。

 さて、昨日は裁判員裁判で2度目の死刑判決。今回は被告が少年ということで、いろいろ取り沙汰されている。朝日新聞の解説は、「市民の健全な良識を量刑に反映することと、少年の保護育成をうたう少年法の理念をどう両立させるか。専門家にまかせずに、市民一人ひとりが考えていく課題だ」なんて偉そうに論じている。しかし、死刑判決が出るかもしれない裁判に「市民の健全な良識」を持ち込むことの是非というのを、もう一度考えるべきなのではなかろうか。「市民の良識」にたよるってのは、司法関係者の怠慢であり、責任逃れ以外の何物でもないと思うけどね。

 昨日の記者会見では、裁判員が2人出席し、ひとりの方は顔出しまでして自らの責任をまっとうしているというのに、裁判官は影に隠れたまま顔も出さない。本来なら、裁判官こそが記者会見を開いて堂々と説明すべきものなのだ。思えば、検察も警察もおよそ司法関係者ってのは自らの説明責任を果たすことはない。たとえば、冤罪となった事件を裁いた裁判官、起訴した検察官、そして逮捕した警察官が、その後記者会見を開いたなんて話は聞いたことがない。つまり、裁判員裁判ってのは、裁判官、検察官、警察官が自らの説明責任を「市民」に押しつけているという野蛮な制度なのではなかろうか。

 今回の裁判員の勇気ある会見に引き換え、情けないのが第5検察審査会の審査員だ。ひとを裁くことの重さを知ることも司法への市民参加の意義のひとつだと思うのだが、ならば小沢君の強制起訴に関わった検察審査員は補助した弁護士共々記者会見を開くべきじゃないのかねえ。強制起訴を決議したとされるお若い方のご尊顔を是非とも拝してみたいと思う今日この頃なのだ。

 ところで、このところの国会では罵詈雑言が飛び交い、なにやらののしり合いが続いている。たとえば、丸川某のようなヒステリックな物言いは、そのへんの男女の痴話喧嘩さながら。なんとまあ低俗な、と思っていたら、天声人語子が国会の現状をかんがみてこんなことをつぶやいていた。

(これより引用)

「こき下ろすのに力が入り、度を超す人を散見する。言葉は魔物だから、自ら言い募るほど自ら酔っぱらう。ゆえに言葉はますます尖(とが)って、盛大になるが、言っている当人の人望は下がるばかりだ」

「清水幾太郎の名著『論文の書き方』に次の一節がある。「無闇(むやみ)に烈(はげ)しい言葉を用いると、言葉が相手の心の内部へ入り込む前に爆発してしまう。言葉は相手の心の内部へ静かに入って、入ってから爆発を遂げた方がよいのである」。言葉は慎(つつ)ましいものにかぎると、この碩学(せきがく)は言う」

(引用終り)

 お説ごもっとも、と言いたいのだが、これこそ「自分のことは棚に上げて」の典型。「政治とカネ」にかこつけて、やれ説明責任だの、やれ辞職しろだの、さらには「民主党の代表と首相になりそこねたのは、国民にとっても小沢氏にとっても幸いだった」と嫌味を言ってみたり、口汚く小沢君を罵ってきたのはどこのどなたでありましょうや。おかげで、人望が下がるどころか、ブログにも劣る(この言葉自体失礼なのでありますが)という評判の体たらく。言葉は慎ましい、という碩学に倣うのはまずは天声人語子なのではありませんかねえ。

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